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FROM  NEW  YORK

3度目のニューヨーク・シティ・マラソン

3度目のニューヨーク・シティ・マラソン


2004年11月7日(日)朝、5時起床。

夜10時にはベットに入ったが、普段から夜更かしで12時前に就寝した事が久しぶりだった事と、やはり興奮からなかなか寝付けなかった。寝起きの悪い私だが今日だけはパッチリと目が覚めた。

いよいよ第35回ニューヨーク・シティ・マラソン当日となった。

新年の抱負を11月のマラソンと定め、2月位から走り始めた。4月、5月、6月まではのトレーニングは調子が良かった。そのまま行けば、目標の4時間半を切る事が出来るかもしれないという密かな想いが強くなっていた。

過去の2回は殆ど同じ時間、5時間少し切るタイムでゴールした。より早く走りたい。走れば走る程、そう願わずにはいられなくなった。だから6月に会社で参加したチェイス・マンハッタン主宰の企業参加のレースで社内女子1位、男女合わせても5位という結果は自分にとっても嬉しいものだった。

しかし、そのレース参加直後足を痛めた。多分、肉離れか何かだったのだろう、その後1ヶ月半から2ヶ月の間、全く走れなかった。無理をして11月の本番に走れなくなる事を避けたかった。

足の痛みがなくなり、またセントラル・パークを走り出したのだが、また足を痛めるのではないかという不安で走るのが恐くなった。そして暫くあったブランクの為、ペースが極端に落ち、少し走るだけで息切れがした。

6マイル(約10キロ)は軽く54~56分で走れていたのが一時間を要するようになっていた。体も重く感じだ。夏には走り込みをしなければならないのに、それをしなかった。その後も長距離トレーニングは避け、普段のトレーニングでも理由を付けて簡単にしか走らなかった。

1999年に初めて走った5年前から比べると、トレーニングの仕方を解かっている。なのにトレーニングはやはり辛いのだ。今更もがいても仕方が無い。自業自得。でもこれで最後のフル・マラソンにしようと思っている。今日一日、走る抜くしかない。

不安一杯の私は軽くシャワーを浴び、前日用意しておいたショーツとTシャツに着替えた。Tシャツの胸には名前を貼り、ゼッケン番号が安全ピンで留めてある。Tシャツの背中にも名前を貼り、グループで走る為に目標時間の4:45のゼッケンを付けていた。

父と母から貰ったピアス、弟と義妹から貰ったネックレスを身に付けた。私のお守り。まさか自分がフル・マラソンを走るなんて夢にも思わなかった。一生で最初で最後と思って走ったのが1999年。走り終わってまた走りたいと思い、2002年に2度目を完走。そして今度が3度目。これが本当に最後になるかもしれない。とにかく完走出来れば満足だ。走り終わっても迎えてくれる家族はいない。だから少しでも家族から貰った物を身につけていたかった。

いつになく暖かな日と天気予報であったとおりに、朝の空気もさほど冷たくなかった。タクシーを拾おうと道に出ると、1ブロック先にマラソンを走るらしき人を見た。

“Excuse me. Are you running Marathon today?”

“Yeah. Get in.”

丁度来たタクシーに乗り込んだ。タクシーをシェアした彼は、聞くところによると久しぶりのマラソンだと言っていた。前は何度か走ったと言う。そういう人がよくいるニューヨーク。だからそんな彼等に刺激を受けて、私も1度だけでなく、2度、3度と挑戦出来るのだ。

ミッド・タウンの42丁目とフィフス・アベニューの角にあるニューヨーク市立図書館前からバスが出て、出発のスタテン・アイランドまで行く。バスは朝5時から出ている。7時前に着いた時も未だ数ブロック先まで人が並んでいた。後から後から来るバス。その数は一体何台位だったのだろうか。100台を優に超えていたのではないだろうか。

待っている時に前身をピンクの衣装、チュチュに靴下、そして天使の羽を身にまとった女の子がいた。回りから注目を浴びていた。彼女のように仮装して走る人もよくいる。特にハロウィーン直後にあたる時はその数が多い。

そして外国人ランナー達の多さ。多分、私も国籍が日本の為、参加者3万6千人中、1万2千人という外国人ランナーの数の一人になっているかもしれないのだが、私の回りはフランス人ランナーが多かった。年齢層が30代後半から50代前半位の男女が、会話を途切らさずに話していた。

30分程待っただろうか。やっとバスに乗り込む事が出来た。何故か落着いていた。これが3度目になる余裕なのだろうか。目を閉じてただバスに揺られていた。バスが止まり着いたかと思いきや、マラソンのバスの渋滞だったようだ。

バスから降りて、茂みでトイレを催す人達が数人いた。その中にはアジア人の女性の姿があった。大きなタオルで隠してはいたのだが、少し場所のずれた位置にあった私達のバスからは、催している姿がパッチリ見えていた。バスの中からは歓喜が上がっていた。こちらがちょっと恥ずかしくなってしまった。

再びバスが動き出すと、一路スタテン・アイランドへ。その途中、既にレースの始まっている身体障害者の姿を見た。彼等は一般レースより早くスタートする。障害者を取り巻くようにボランティアに人達が付き添っている。その中に両足が偽足で松葉杖をついて進んでいる人の姿があった。そして一生懸命車椅子で進む人。手漕ぎ自転車に乗っている人を見た。障害を乗り越え、彼等も頑張っている。胸を強く打たれた。今年はイラク戦争で障害者となった人達が多く参加していると聞いた。足を失ってもチャレンジする。彼等の精神力に脱帽する。

バスを降り、一緒に走る友達と電話で会う場所を確認した。年を経る毎に、より組織化されているように思えた。まずゼッケンの色分けによりスタート地点が違う。そして荷物を預ける場所、ポータブル・トイレの設置場所が前回よりも良くなっているように思えた。

友達のMさんはウォール街にある某投資銀行で働く27歳の女性。ブロンドの性格も可愛い女の子だ。今回が初めての参加という事で、とても緊張していた。約一ヶ月程前に長距離トレーニングで一緒に走った彼女と私のペースは同じだった。その時は共通の友達と3人で走ったのだが、その彼女がそのレースで膝を痛めて今回のマラソンを棄権しなければならなくなった。彼女はとても悔しがっていた。だが私とMさんとの橋渡しをしてくれた。一緒に走る事が出来ればお互いを励まし合いながら走る事が出来る。完走が目的の今回のマラソンにはとっても良いランニング・パートナーに巡り合えた。

ランナー達がスタート前に脱ぎ捨てて行くスウェット類はチャリティーに寄付される事でも有名だ。スタテン・アイランドに着いてからスタートまで長時間ある。今年はさほどでもなかったが、11月上旬の朝はやはり冷え込んで寒い。ランナー達はスウェット等を着込み体を冷やさないようにして待機する。そしてスタート前や走りながら脱ぎ捨てて行く。その衣服がチャリティーに寄付されるのだ。凄いアイディアだと思う。さすがニューヨーク。脱ぎ捨てられる物は良い状態の物が多く見られる。

アナウンスがあり、私のゼッケンの色、青色を付けた人達がラインに並んだ。4:45と書かれたプラカードを持ったグループリーダーとちょっと離れて位置に着く。午前10時10分が一般人と男子トップ・ランナー達が走り出す時間だ。並んだ位置からスタート地点までは数分のギャップが出る。そこで数年前にコンピューター・チップを使って実際の時間とネット時間が出る仕組みが導入された。そして今年はインターネットとグローバル・サテライトを駆使して、ランナーがどの地点を通過しているのかが解かるようになった。一昔、途中で地下鉄に乗ってズルしたランナーがいたそうだ。彼は全ての陸上競技から参加禁止例を受けているそうだが、そんな事はもう不可能となった。

スタート地点からアメリカ国歌が聞こえて来た。そしてスタート!だが実際に私がスタート地点を通過したのは約10分後だった。スタテン・アイランドからブルックリンに渡る釣り橋のヴェラザノ橋を渡る。先方に見えるのは、人の海。そして幾つかのヘリコプターと青い空。そして遠くに見えるマンハッタン。そこにはもうツインタワーの姿は無い。

橋を渡るとブルックリンに入る。“Yo! Welcome To Brooklyn,NY”と書かれたサインを持った地元の人達が応援してくれた。ここから先、ゴールまで沿道の観客達が走り続ける力をくれる。名前をTシャツに書くのはその為だ。Mさんはそれが気に入ったようで、沿道ぎりぎりで走り続けた。子供達がハイ・ファイブの手を差し伸べてくる。それをパチパチ叩いて進んで行った。

私とMさんは自分の名前がちゃんと発音されている事に喜んでいた。そして私は手を振ったり、笑顔を返していた。またヤンキースの帽子を被っている人がいるのを見て、“Go Yankees!”と叫んでいた。Mさんも大のヤンキーズファン。ヤンキースの名が出る度に力が湧いた気がした。

私の足は軽く感じた。「大丈夫。行ける。」 そう思ったのが最初の8マイル地点だった。沿道の人達がいると練習の時と違い1マイルが短く感じるのだ。だからあっと言う間に時間もマイルも過ぎて行った。マラソンのコースで、普段では行かないようなブルックリンを通る。 その地域によって住む人種が違うのだ。

橋を渡って直ぐ辺りはイタリア系が多かったようだ。そして進んで行くと、黒人、ヒスパニック、そしてユダヤ人(オーソドックス)の多い地域を通過する。黒人、ヒスパニック系の多い場所は賑やかだ。音楽を大きくかけてたり、名前を呼んでくれる人も多かった。

そして所々でバンドが演奏されていた。映画ロッキーの音楽を中学生か高校生位のブラスバンドが演奏している時が印象に残っている。その他はロック系の元気になる音楽を演奏しているバンドだ。ガソリンスタンドに楽器を設置し、歌い続けてくれているのだ。だから観客も盛り上がるのだ。

私とMさんは順調にブルックリンを抜け、クイーンズを走った。クイーンズを走り抜ける頃で約半分の13.2マイル地点だ。マンハッタンはすぐそこに見えた。クイーンズから59丁目橋を渡ればマンハッタンに入る。ファースト・アベニューの観客は有名だ。橋を渡るとゴーっという音が聞こえて来るのだが、それが歓声なのだ。早くその歓声が聞きたかった。

なのになかなか橋には辿りつかなった。橋はちょっとした上り坂になっている。半分以上走った私とMさんは橋を渡る前に走るのを止め、軽いストレッチをした。私の膝が少し痛み始めていた。2年前の事が脳裏を横切った。この橋を渡り切ったところで、膝に激痛を感じそれ以降沢山歩かなければならない羽目になったのだ。痛さと悔しさで泣きそうだったのだ。

スタミナを使い切らないようにと橋は歩いて渡った。観客の沢山いるファースト・アベニューを一気に走りぬく為だ。Mさんのご両親と家族、そして友達のご両親が約束の地点にいる事を告げられていた。その場所で軽く挨拶をした。

ご両親は目立つようにと赤い風船と娘の名前を大きく書たボードを持って待っていた。挨拶を手短に済ませるとまた私達は走り始めた。17マイル地点あたりだった。体がだんだん重くなって行くのを感じた。自分のスタミナが続くかどうか心配した。1マイル毎に水やゲータレードの補給所が設置され、その都度水やゲータレードを飲み、また持参したパワージェルを5-6マイル毎に食べて補給していた。だが、疲労度は増して行った。

71丁目でMさんの大学時代の同級生のお母さんが飛び入りで約20ブロック程一緒に走った。Mさんの同級生、C夫人の息子のWさんは9・11の犠牲者。当時勤め先があったツインタワーの104階で働いていた。また生まれ育った地元では訓練を受けたボランティアの消防隊員だった。

あの日、Wさんは何人もの命を救った。彼の遺体はNYCの消防隊員達が連絡を取る集合場所としていた場所に消防隊員達と一緒に発見されたという。彼は幼い頃から赤いバンダナをいつも肌身離さず身に附けていたという。その赤いバンダナを口に撒いた若い男性に救われたという数人が証言したのだ。ニューヨーク・タイムズ紙を始め、ニュースにも上がったとMさんが話してくれた。

ご両親はその後、チャリティーを始め、その基金を集める為にMさんは赤いバンダナを手に巻いて走っていた。彼女がマラソンを走る事で、職場の人達や友達から約2000ドル集めたという。来年はもっと多くの人に、このチャリティーの為に走って貰いたい、そうMさんを始め亡くなったWさんのご家族は思っているのだ。

C夫人は首に赤いバンダナを巻いていたのだが、彼女が走りを止める時、そのバンダナを私にくれた。残り7-8マイルを頑張れるようにと。軽く抱擁し、別れを告げてまた私達は走り始めた。これから先はマンハッタンからブロンクスへと入って行く。ファースト・アベニューを後にするとだんだん人が好く少なくなるのが有名だ。その辺りになると18マイル、20マイル地点。別名、The Wall (壁)。この先があと6マイル、4マイルという地点からゴールまでが果てしなく遠くに感じるのだ。

体が重い。膝が痛い。疲れた。そんな私をMさんが励ましてくれた。

「あと少しでマンハッタンよ。そしたらゴールはすぐよ。ブルックリンで私が辛かった時に励ましてくれたから、今度は私の番ね。さあ、行きましょう。」

思ったよりブロンクスには人が集まっていた。少し走ってはストレッチをして少し歩く事を繰り返した。回りのランナー達も皆疲れきっていた。少し歩いてはまた走り出す。その中に車椅子の日本人の姿があった。通り抜ける際、「日本人、ガンバレ!」と言って過ぎ去った。数人の日本人ランナーを追い抜かして行く時も同じ様に声を掛けた。その一言がパワーになる事があるのだ。Mさんが私を励ましてくれたように。

膝が痛くなった私は一度、医療スポットで痛み止めを貰った。その時、「誰か日本語話す人いない?」とスタッフが大声で叫んだ。

“I DO!!”

私の反応は早かった。そこには英語の話せない日本人の中年のおばさんが担架の端に座っていた。胸から腹の辺りが気持ち悪いのだという。それを伝えられないでいたのだ。痛みはなく、ただ吐き気がするだけ。それをスタッフに告げ、スタッフが指示を私に伝え、それをおばさんに説明した。おばさんはもう棄権しようかと考えたようだった。とにかく指示はしばらくその場で休む事だったので、そのおばさんを後にまた走り出したのだった。あのおばさん、どうしたんだろう。歩いてでも完走したのかな。それとも本当に棄権してしまったのだろうか。

やっとセントラル・パークの横のフィフス・アベニューになった。ここからは上り坂が多い。息が更に苦しかった。足は重く、膝が兎に角痛かった。そこをMさんに励まされ、彼女の両親が待つポイントまで辿り着いた。彼女が話しをしている間、私は屈伸を何度も繰り返した。

「あと2マイルちょっとよ!頑張りましょう!」

コースはセントラル・パーク内へと入っていく。ここからは勝手知った道となる。タイムは既に5時間過ぎていた。自己記録をもう破る事は出来ないが、頑張らねば、とまた歯を食いしばり膝の痛みと闘いながら走った。

正直な所、自分がどれだけ走れるか自信がなかった。長距離トレーニングでは最長16マイル一回、ハーフ・マラソン(13.2マイル)を2度走っただけだ。だから、実際に24マイル地点を通過出来た事は自分でも驚いていた。

メトロポリタン美術館の横を通り、次に来る下り坂を一気に走り、最後の上り坂を通過した。そのすぐ直後の25マイル地点で、左太股が軽い痙攣を起した。やばい、と思った。これが起こると足が動かなくなる。軽くマッサージをした。あと1マイルちょっとでゴール。最後の力を振り絞り、セントラル・パークを抜けて、プラザ・ホテル前の59丁目を走っていた。

すると沿道からMさんを呼ぶ声があり、そこには彼女の同僚がいた。彼は沿道をランナー達に平行に100メートル走のように走った。それについてMさんがダッシュ始めた。私はそんな余力は残ってなかった。有名はビル・クリントンのジョギングのスピードで、止まらずに走った。コロンバス・サークルからまたセントラル・パークへと入り、ゴールは目と鼻の先となった。

26マイル地点を通過。残り、0.2マイル。数百メートル。名前を呼んで励ましてくれる人達がいる。このゴールを越えれば、思ってもいなかったニューヨーク・シティ・マラソン3度完走した事になる。また走りたい。この感動をいつまでも感じていたい。でもそれはいつになるか解からないし、これが最後のフル・マラソン参加かもしれない。でも十分満足だ。人間、やろうと思ってやれば何でも出来る。それをマラソンが私に教えてくれた。涙が出そうになりながら、天にキスして、

ゴール!!

オフィシャル・タイム 5:49:59、ネット・タイム 5:41:39。完走した!! 3つ目になるメダルを貰い、写真を撮って貰う。ブランケットを肩に羽織り、ペット・ボトルの水を一気に飲み干した。先にゴールしたMさんが待っていてくれた。抱き合っておめでとう、やったね、と繰り返し言い合った。

荷物を預けてあるトラックへ歩きながら、Mさんがまた走りたいと言った。その時はもっとトレーニングしてチャレンジしたいと既に意欲を燃やしていた。彼女のご両親と合流し、カーマインズというイタリアン・レストランでのディナーに招待され、そこでCご夫妻も合流した。

食事が美味しかった。椅子に座る事が嬉しかった。C夫人の誕生日が一日前という事で、Mさんの友達が持ってきた、赤いバンダナが上にデコレーションで飾ってあるバースデーケーキを食べた。C夫人は自分も来年は走ってみたいと思っていると話していた。

帰路、バスに乗り込む際に皆がメダルを見て、おめでとう、と言ってくれた。バスの運転手さんは、

“It’s on me.”

そう言って私のバス代を払ってくれた。アメリカの良いところ。その気持ちがとても嬉しかった。

26.2マイル(42.195キロ)。その道のりは長く辛い。でも走り出したら、ただひたむきに突き進むだけ。人の生きる道も同じ。生れてから死ぬまで、何度も立ち止まったりする事はある。でもそこには家族がいて友がいる。笑顔があり、励ましがあり、涙がある。パートナーがいれば辛い時には励まし合い、喜びは分かち合える。でも私は私の生きる道を走り、歩いて進んで行かなければならない。ゴールをする時に充実感で一杯の人生は幸せだ。

私の人生はまだまだハーフ地点にも達していない。もっともっと色んな事にチャレンジして、沢山の人と会い、感じてひたすらに進んで生きたい。愛する家族が日本にいて、沢山の友達がいて、健康な体に恵まれている私。神様に感謝したい。

今、わたしは充実感と達成感でしあわせです。神様、ありがとう。


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